アルプス登山史

@スポーツ登山の誕生
 登山自体を目的とした登山行為の歴史を記録という形を頼りに遡るとすれば、ヨーロッパの18世紀からのこととなる。このころになると、3000m級の山々がしきりに登られた。スポーツとしての登山がはっきりとした形で現われたのは、やはりモンブラン登山である。1786年のモンブランの初登頂であるが、これはフランス革命の3年前のことであった。山麓にある今のシャモニ・モンブランの町は当時シャムニィと呼ばれ、スイス領であったという。1760年、ド・ソシュール(ジュネーブの裕福な家の出身であった自然科学者)は20歳になると待ちかねたようにシャモニへやって来た。そして、ブレヴァンから眺めたモンブランに心から魅せられ、この山に登路を発見した人には賞金を出すことをシャモニの谷の住民に告示した。26年経った1786年8月8日、ようやくモンブランは征服され、登山史に輝かしい大きな記念日が迎えられた。8月7日、医師パッカールとJ・バルマはシャモニを出発した。一晩ビヴァークをしたのち、よく晴れた青空のもと、高山病や雪盲に悩まされながらも、よく頑張って登り続けた。途中、バルマは疲労のあまり、子供の重病を理由に下山をほのめかすことたびたびであったが、パッカールの激励が功を奏し、どうにか登りつめることが出来た。そしてついに午後6時23分、アルプス最高の山巓に立つことができた。

Aド・ソシュールの活躍
 登頂の知らせを受けたド・ソシュールは取るものも取りあえず、シャモニに急行した。ただちに村人16人を雇い、自ら第二登をするべく準備を整えて出発したが、あいにく悪天候に阻まれて退却、ついにその年は断念せざるを得なかった。翌1787年8月1日、彼は再挙を企て、用意万端、完登を期してシャモニを出た。今度はバルマをガイド頭にして、ガイド、ポーターを18人に増やし、そして一人の従僕を加えて総勢20人の大登山隊であった。全員を収容できそうな大きなテント、クレバスを渡るためのいくつかの梯子、それにザイルも加えた。ド・ソシュールは非常に長いアルペンストックを用意して、その両端をふたりのガイドにそれぞれ持たせ、自分はその真ん中を掴んで手摺りのようにした。3日午前11時を過ぎた頃頂上に着いた。高山病にやられ、疲労困憊したが第三登に成功した。実は、バルマがこれに先立って、7月5日J・Mカシャ、A・トゥルニェと第二登をしていたのである。ド・ソシュールは頂上にしばらくとどまり、携帯したいろいろな計器を使って標高を計算し、モンブランの標高を4755mとした。パッカールの初登時の測量では4738mと発表されていた。ド・ソシュールはアルピニストであるとともに、自然科学者としてアルプスで活躍した最初の人であったのである。

Bアルプス登山黎明期
 19世紀に入ると4000m級の山が登られ始めた。まず、モンテ・ローザ。この山は近くに鋭くそびえるマッターホルンとは対照的な、大きなどっしりとした山容を誇り、主峰のデュフールシュピッツェ(4634m)のほかにいくつかのピークをもっている。1778年にJ・J・ベックらの一行が、南のイタリア側からモンテ・ローザの西隣リスカムとの鞍部、リスヨッホに到達するが、19世紀に入るとすぐに周辺部のピークが次々と登られ、主峰が登頂されたのは1855年である。イギリス人のチャールズ・ハドソン(10年後にウィンパーらとともにマッターホルンに初登頂、が下降中に墜落死をとげた)、ジョン・バークベック、E・J・スティーブンソン、J・G・スミス&C・スミス兄弟らの大パーティだった。
 もうひとつの舞台がユングフラウ(4158m)である。スイス北部のアーラウの富裕な実業家J・R・マイヤーは、1811年二人の息子に数人の従者をつけてユングフラウに向かわせた。彼らは途中、カミシカ猟師二人を雇い入れ、レッチェンタールから4日かけて8月3日みごとに父の望みを果たし、初登頂に成功した。ところがこの初登頂に疑いがもたれたため、マイヤーは翌年また一族を派遣して第二登をさせている。ちなみにユングフラウヨッホに至る登山鉄道は、1912年に完成した。一般ルートへのアプローチは鉄道のおかげで大幅に短縮された。

C氷河学者の活躍
 19世紀の登山で目立つことは自然学者とくに氷河学者の活躍である。スイス人のF・J・フギやJ・L・R・アガシィ、英国人J・D・フォーブスやJ・チンダルがその主たる人物である。
 フギは1829年ベルナーアルプス最高峰のフィンスターアールホルン(4273m)初登頂の際、頂上の60m下まで登りながら断念し、二人のガイドに登らせている。彼の名はフギザッテル(南西側壁からのフギの鞍部)として永遠にとどめられている。
 アガシィは氷河研究に没頭し、フギによって基礎づけられた氷河学を大きく発展させた。
 フォーブスはアガシィの教えを受け、氷河学の権威となったが、やがてアガシィと対立する。1820年のモンブラン登山史上最初の惨事が起き、ハメル事件と騒がれたが、このときの雪崩のため行方不明となった三人のガイドの遺体と遺品が、フォーブスのほぼ予言通り41年後にボソン氷河から発見され、フォーブスはこのため一躍名を高めた。
 チンダルはアルプス登山黄金時代を彩ったひとりである。1861年、二人のガイドを連れてヴァイスホルン(4505m)に初登頂している。また、ウィンパーと競うようにマッターホルン初登頂に情熱を傾け、そのイタリア側のリオン稜にピック・チンダルとしてその名をとどめている。

Dアルプスのガイド
 もともとアルプス山麓に住み着いていた人々にとって、マッターホルンやユングフラウなどは、美しく荘厳なものとして崇められたというより、魔物の住むところで恐怖の対象とされていた。それが19世紀半ばになると急峻であるが故に、登山というスポーツの対象になり登山好きな紳士が集まり、ガイド(もともとは羊狩りや水晶採り、あるいは旅人の道案内、密貿易の手伝いなど細々と暮らしを立てていた男たち)を雇い始めたのである。ガイドが次第に盛業となると、常連客も増えてくる。なかにはひと山ごとの契約だけではなく、シーズン通して雇われるガイドもでてきたようだ。そうなるとガイドもこの稼業にせっせと精を出すようになる。とはいえガイドの仕事は大変である。雇う側は、登山技術も、用具の認識も、落石や雪崩対策も何から何までガイド任せである。ガイドが氷河にステップをきれば、その後をついて行くだけであった。初期の英国山岳会会長のL・スティーヴンも、ガイドを雇ったときは決して一切の面倒な作業は自分ではやらず、すべてガイド任せだったという。
 スイスのガイドたちは、顕著な未踏峰に登ることを控えていた。なぜならば、金と暇のある英国紳士たちはなによりも初登頂を喜び報酬をはずんでくれるので、ガイドはその特権を残しておいたのである。

Eアルプス黄金時代 その1
 すなわち1854年のA・ウィルスによるヴェッターホルン登頂から、1865年のE・ウィンパーによるマッターホルン初登頂までの時期を指している。

1854年 ヴェッターホルン 3701m (A・ウィルス)
1855年 モンテ・ローザ 4634m (J・G・スミスら)
1856年 ミディ針峰南峰 (F・ド・ブィユ)
1857年 メンヒ 4099m (S・ポージェス)
1858年 アイガー 3970m (C・バリントン)
      ナーデルホルン 4327m (J・ツィンマーマンら)
      ドム 4545m (J・L・デイヴィーズ)
1859年 アレッチホルン 4195m (F・タケット)
      リムプフィッシュホルン 4199m (L・スティーヴン)
      グラン・コンバン 4314m (C・ボアヴィール)
1860年 グラン・パラディゾ 4061m (J・カウエル
1861年 リスカム 4527m (F・ロッホマッターら)
      シュレックホルン 4078m (L・スティーヴン)
      ヴァイスホルン 4505m (J・チンダル)

Fアルプス黄金時代 その2
1862年 ダン・ブランシュ 4356m (S・ケネディら)
      テッシュホルン 4490m (F・ロッホマッターら)
      グロス・フィッシャーホルン 4049m (W・ムーアら)
1863年 ダン・デラン 4171m (C・グローヴら)
1864年 バーロ・デ・ゼクラン 4101m (E・ウィンパーら)
      ツィナールロートホルン 4221m (L・スティーヴンら) 
1865年 グランド・ジョラス(ウィンパーピーク) 4184m (E・ウィンパー)
      オーバーガーベルホルン 4063m (W・ムーアら)
      マッターホルン 4478m (E・ウィンパーら)

 黄金時代の登山は主に氷雪にルートが求められ、ガイドがもっぱら足場をきって進み、客はそのあとをひたすら追ったのである。足場さえ確実にきって、これを慎重にたどれば登降はできたからである。以上で主要なアルプスの初登頂が達成され、黄金時代の幕を閉じることとなった。
 そして時代は、氷雪ルートに加えて岩場ルート、ノーマルルートからバリエーションルートの開拓という段階を迎える。「銀の時代」の到来である。

G銀の時代 その1
 この時代の期間は、1865年のマッターホルン初登頂後から1882年のダン・デュ・ジェアン(4013m 通称「巨人の歯」)の初登頂までの17年間とされている。この時代の特長は、岩登り、ガイドレス登山の流行などである。その代表的なクライマーがA・F・ママリーである。黄金時代のスターがE・ウィンパーだとすれば、銀の時代のそれはこのママリーであるといわれている。彼はウィンパーに遅れること15年、1855年9月、英国に生まれた。登山家として名声を得たのは、1879年マッターホルンのツムット稜初登攀の成功によってである。そして1892年以後、ガイドレス登山に変わり、J・N・コリー、G・ヘイスティング、W・C・スリングスビーとの「不滅の四人組」のリーダーとして、シャモニ針峰群を中心とした岩登りで初登頂を含む大胆な登攀を敢行した。また1894年のモンブランのブレバン稜はガイドレスによる初登攀であった。
 ママリーは登山を純然たるスポーツと見なし、修練によって得る技術と困難に立ち向かう闘志こそ、登山の真髄と信じ、これを極限まで追求しようと試みた最初のアルピニストであった。彼が提唱し実践した「より高きを、より困難を」の思潮はママリズムと呼ばれ、後年多くの信奉者を得て主流をなすに至った。しかし1895年8月、ヒマラヤのナンガ・パルバット(8125m)において消息をたってしまった。

H銀の時代 その2
1868年 グランド・ジョラス(ウォーカーピーク) 4208m (H・ウォーカーら)
1872年 モンテ・ローザ(クラシックルート) 4634m (C・テイラーら)
      ツィナールロートホルン(ノーマルルート) 4221m (C・T・デントら)
      モン・ブラン南西壁 4810m (J・カレルら)
1877年 ラ・メイジュ 3983m (E・B・ド・カステルノ)
1878年 グラン・ドリュ 3754m (C・T・デントら)
1879年 プチ・ドリュ 3733m (J・E・シャルレら)
1882年 ダン・デュ・ジェアン
      ママリーや当時第一級のガイドA・ブルゲナーを含め数々の
     失敗の後、この年の7月、人工補助具を投入して、セラ兄弟
     がガイドのマキニャ三兄弟とともに南西峰(セラ・ピーク 4009
     m)の登頂を果たし、8月には、W・W・グラハムらが北東峰(グラ
     ハム・ピーク 4013m)を初登頂して、銀の時代は終焉した。
 またこの頃から、英国の富裕階級の人々による保守的な登山に対抗するようにドイツ語圏の登山家が台頭してきた。ドイツ、オーストリアでは、登山は大衆スポーツであり、ガイドレス登山が普及していったのである。いわゆる単独行であり、究極は過激なまでの岩壁登攀、しかも次々と新しいルートからのものであった。

Iアルプス三大北壁
 1930年代、北壁が騒がれるようになったのは、北に面しているため日照時間がほとんどなく、暖かい陽光に恵まれることがないため、登攀条件がクライマーにとって辛く厳しくなることに価値と魅力を見いだしたからである。
 三大北壁のうち、まずマッターホルン北壁が1931年夏、シュミット兄弟によって登られた。彼らは初の冬季登頂も行いスキー下降をやった兄弟でもある。
 これに刺激されたように、次に登られたのはグランド・ジョラス北壁である。北壁はフランス側にあって、標高差約1200m、横幅約1300mに及び屏風を立てたような形をしている。1935年、R・ペータースらによって北壁中央のクロ側稜が登られ、1938年8月には、最高峰ウォーカー側稜がR・カシンらによってあっけなく登られた。
 アイガー北壁はこのカシンらの登攀の2週間前の7月下旬、A・ヘックマイヤーらによって登られている。彼は著書「アルプスの三つの壁」の中で「私は初めて十二本爪アイゼンを使ったのである。その性能のよさには驚かされた。そして、その爪先が直登の際に与える安全性は、たとえ最も急峻な登路でも快適なものだった。最初の雪壁は数分で征服された」と書いている。