まえぶれ

 

 ビスケー湾に面 するラ・コルーニャを目指して列車は進むが、途中のカトリックの聖地、サンティアゴ・デ・コンポステーラに立ち寄ることにした。
信者は国内外から歩いて巡礼をする。
私たちは時間が限られていたので、駅に荷物を預け、とにかく丘の上のカテドラルに向って歩き出す。
まず、その大きさに圧倒される。ロマネスク洋式の建築物で、その堅固な表情は、ポルトガルのマヌエル洋式に代表されるような、繊細さや、今にもとろけだしそうな(または崩れ落ちそうな)あやふやな魅力やもろさはない。ここを目指して集まってきた信者の圧倒的な熱意が発散されている。
いつか時間とお金に余裕がが出来たときに、フランス国境からここまでの巡礼の道をたどることが、私の現在の夢である。
その時に迎えいれるファザードは全く別の顔を見せてくれるのではないだろうか。

1994年9月11日の旅行記より。

 

正直言って、10年前のこの夢が、まさかこんなに早く現実になるとは思わなかった。
また、そんなことが自分に出来るとは思わなかった。
しかし、この時から私の道は、ここ、サンティアゴに向かっていたのかもしれない。
テレビの特集、巡礼の本を少しづつ読んではいたけれど、いつでもそれは遠い夢だった。
この1994年に5年間の留学生活を終えた私は、将来がまだ見えていなかった。 不安でいっぱいだった。ただ、一途にやりたい事に向かってなんとか進んで来た。
さて、これからの10年、私はどこに向かって生きていくのか。

 

 不思議なことに、旅行の一ヶ月前より小さな幸運が続き、これはこの旅行がすでに 始まったことを意味していた。
いつもなら、ありえないような偶然の人との出会いが、旅行前の忙しい日々の 合間に立て続けに起きたのだった。
この小さな魔法が解けないように、旅行中もずっと続くように、私は祈るような 気持ちで、自分のこころにこのことをしまっておいた。



 

サンティアゴ伝説について、少しだけ・・・




 ヤコブ(以下サンティアゴ)は、キリストと同時代、ガラリア湖畔の漁師の子として 生まれ、浜辺で網を繕っている時に、弟ヨハネと共にイエスに『我に従え』と言われ 召し出された。
兄弟は、イエスから『雷(いかずち)の子』と呼ばれるほど性格が 激しく純情一途にイエスを敬愛した。
西暦44年、当時の王の人気取り政策として、エルサレムで捕らえられ、大勢の民衆の 前で斬首される。その首のない遺体がスペインに運ばれ、パドゥロンに漂着した。
その後数世紀の間、スペインは長い迫害、民族の移動、戦争や混乱があり、サンティアゴの墓所は不明になっていたが、西暦813年、或る日突然天に不思議な 星が現れ、聖人の墓所を示し、発見された。
そこを『コンポステーラ』=『星の 畠』と名付けサンティアゴ・デ・コンポステーラと呼ぶようになったという説がある。


また、この道、カミーノのシンボルの一つである、帆立貝の伝説がある。
 ひとりの騎士がガリシアの海岸を馬に乗って通っていたところ、馬が暴れだし、 振り落とされて海岸に落ちた。溺死寸前に騎士はサンティアゴへ加護の祈りを求めた。
聖人は水深く沈まぬ前に彼を支え、水から出て来た時には彼の体じゅうにびっしり 貝が張り付いていた。
貝殻を手のひら、すなわち善業を果たす道具としてとらえるという解釈がある。

 

 

 

 

 

7月17日〜18日  サン・ジャン・ピエド・ポーまで

 

 パリまでの飛行機は、三分のニ程度が埋まったもので、窓際の3人がけに、あいだに 空席をひとつ置いて通路側におじさんが座る。
おじさんは、推定32歳。クアラルンプール出身の建築技師で、出張でヨーロッパ に向かう途中だった。
彼はとても人なつっこく、政治の話から、今回の旅行の話をした。
私が800km歩く予定だと言うと、交通費(列車の費用など)がないから歩くのか? という 質問があり、実に不思議なことだと言って同僚に話をし、何人かに物好きな日本人を紹介していた。

  出発前に忙しくてろくに旅行の準備をしていなかったので、機内と、乗り換えの クアラルンプールでやり残したことを片づけ、旅行の準備をした。
そんなことで忙しかったし、このおじさんとのやりとりもあり、機中の旅は あっと言う間だった。

 パリでは、一緒に旅行をするグリちゃんと待ち合わせをしている。 ほとんど同じ時間に、別 の飛行機で関空からやってくるのだ。
バカンスで混み合った出口で待っていると、無事グリちゃんにも会うことができ、 早速TGVの予約をしに行く。
午前中にはここを出て、早めに巡礼の出発点、サンジャンに着きたかったが、 この季節、帰省客や満員で午後の便までない。 その便で行くと、どうにかギリギリまだうす明るいていどの時間に現地に着けそう である。
日本で買ってきた、フレンチ・スペインレイルパスに日付けを書き込み、 のんびり空港内のカフェ時間を潰す。(列車は空港から直接出ているものだった)
ホームの上でTGVを待ちながら、持ってきた帆立貝をリュックに装着して巡礼の 準備を整える。

ここから、バイヨンヌで乗り換えて、巡礼の出発地、サン・ジャン・ピエド・ ボーまでは列車の旅。
バイヨンヌまではTGVで数時間。
予約されていたのが、あいにくの喫煙車両で、真新しいリュックや 服もすべてが一気にスモークされる事態となった。
途中二度ほど、緊急停車もあり、バイヨンヌでの乗り換えに間に合うか、不安な時刻と なってきた。
バイヨンヌでは、最終列車から二本目に乗るはずだった。
それに乗れば、まだうす明るい時間である。

  列車は遅れ、バイヨンヌに着くと、土砂降りの雨。
すぐに乗り換えの小さな列車をみつけ乗り込むが、なかなか出発しない。 (パリからの列車が遅れたのか、最終便が早めにホームに着いていたのかは定かではないが)
何故か列車はホームを出ては、少し動いてまたホームに戻り・・・を三回繰り返し て、いよいよ出発した。
すでに雨のせいもあってか日も暮れ、心細いことこのうえない。
列車は半両ほどの車両が二両。とても小さい。
今日中に巡礼オフィスに行って、クレデンシャル(巡礼証明書)をもらわなけれ ば、出発は半日、もしくは一日遅れてしまう。
まあ、あせってもしょうがない。どうにかなるだろう。

  サン・ジャン・ピエド・ボーに着くと、とっくに日は沈み、雨は止む様子もない。
駅で地図をもらい、 雨具の準備をして、とにかくアルベルゲ(巡礼宿)を目指して坂を上っていく。

  まもなく雨は強さを増し、稲光りが大きな空じゅうに光る。
空は上にあるのではなく、私たちが向かう正面にあり、その光りは、まるで私たちを迎え入れるように、両手を広げるがごとく包みこむ。
そして光りは、電柱のない村を明るく照らしてくれた。

  坂を登っていくと、グリちゃんが 「これは巡礼オフィスじゃない?」 中に入ると、まさにそこがオフィスだった。
時は10時少し前だっただろうか。 オフィスの人は、今夜泊まる宿は決まっているのか聞き、まだなら向かい側の アルゲルベ(巡礼宿)に手続きの前に先に行ってからここに来なさいといことだった。
言われた通りにすると、運良くまだ部屋が空いていることがわかり、すぐに オフィスへ戻る。
簡単な質問に答えて一つ目の記念すべきスタンプをもらい、10時には閉まると言う アルゲルベに戻った。
これで、明日の朝から歩けるのだ!
すべてが準備をされていたように、私たちは幸運だった。
ちょうどそこに、私たちと同じように、今まさにここに着いた中年の女性がいた。 私たちは朝食や明日のお弁当の説明を受け、ニ階に上がる。
その部屋には先客のスペイン人の学生4人(後でわかったが、一人は社会人)がいた。 さきの女性も同じ部屋で、私のベッドの下の段を取った。
誰もがまわりに気を使い、静かに寝支度を整えて就寝となる。
私は飛行機の中で寝るのは苦手である。 前日までのハードスケジュール。それまでも、睡眠時間を削ってきたというのに、 疲れてくたくたなはずなのに、気が昂っているのだろうか。

初めての寝袋。不安・・・、まんじりともせず夜が明けた。

 












 

7月20日   RONCESVALLESまで (24,9KM)

 

  朝食はフレンチスタイルのシンプルな食事だが、おいしいフランスパンを食べるこ とが出来た。
私の隣にはすでにカミ−ノを一度歩いたことのあるベルギー人のおじさんが座った。 彼は昨日ここに着いた時にも親切にしてくれたのだった。
食後、二つ目のスタンプを自分で押すことになる。 うまく押せるか躊躇していると、スペイン人4人組のペドロがスタンプを押してく れ、日付けも書いてくれた。
そんなことでさえ嬉しく感じるほど、最初からまわりのまなざしが柔らかかった。
宿で用意してくれた特製のボカディージョ(スペインのサンドウィッチ)を受け取り すでに一歩先に歩き出したスペインの若者達の背中を見送って、出発となった。

  昨日暗がりの中通ってきたこの町の風景も素敵だったし、アルベルゲの回りも 石畳が敷かれた小径、スペイン門、川、みなかわいらしい。
なのに、足早にここを去らなくてはならない。なんてもったい話だ。 必ずもう一度、あらためてここに来ようと思った。
 
  歩き出してすぐに私の足は痛み出した。 寝不足は、体を固めるので筋肉痛を起こし易い。大敵だというのに。
ただでさえ足下がふらつくのに、今日は25kmの道をピレネーを越えるため 歩かなければならない。
この巡礼のスタート地点に立つことを今まで楽しみに、乗り越えてきた事もあったのに、 この日が一番つらい一日となり、また記念すべきつらい出発となってしまった。
まず、右足のふくらはぎがつる。治った瞬間左の足の裏がつる。それが治った瞬間 今度は右の足の甲・・・、と言った具合に、次々と痛みの場所を変え、常に足が痛い。
こんなことでは今日はとても歩けそうもない。
足が大地に着いていない感覚なのだ。

  8km地点あたりだろうか。手許の資料にはまだ載っていない新しくできたアルゲルベがあり、階下はカフェのようになっており、コーヒーが 飲めるようになっていた。
ここでまた一緒になったベルギー人のおじさんと デミタスカップに入った濃いコーヒーを飲む。
この後、さらに登りが10km続くという。
グリちゃんは先に出て行き、私はもしかしたらここに泊まるかもしれないと思っていた。
不思議なことに、この一杯のコーヒーで、私の体は生き返ったようになり、もう少し 歩いてみようかという気になった。

私はまた歩きだした。
朝、歩き出した頃から、深く霧がたちこめていた。せいぜい前後10メートルしか 見えない道だったが、進むべき道ははっきりと見えた。 だから、一人でも全く不安はなかった。
ピレネー越えはキツイとさんざんおどかされていたが、近年工事を行ったので あろうか、道はほとんど鋪装されており、箱根の方がよっぽどきつかった。
そして、追い越していく人が声をかけてくれる。そのやさしさ、その響き、やすらぎの笑顔・・・私はいつの間にか、愛の世界に溶けていくような気がした。
これは同じ道を歩く人への連帯感といたわりであった。
すでに足の痛さよりも、満ち足りた気持ち、愛に包まれた道を歩ける喜びに先へ先へと足を運んだ。

  山の上の開けた場所に来た頃には、すっかり霧も晴れ、青空と太陽が眩しかった。
そこへやって来たのは、昨日からのアルゲルベで一緒だったイタリア人の女性、アンジェラがやってきた。
スペイン人の友人が、イタリアへ旅行に行った際、お互いの言葉で通じたと言って いたのを思い出して、試してみようと思った。
イタリアに行って、スペイン語を話す勇気はないが、ここはもうすぐスペインなのである。
まず、イタリアのどこから来たのか聞いてみた。 すると、なんとか通じるではないか。おもしろい。 アンジェラはサルディニア島から列車を20時間乗り継いで来て、10日後には帰ってしまうと言う。目標はブルゴス。 そして、今回行ける所まで行って、その場所からまた来年歩き出すと言う。
昨日は話もせずに寝てしまったけれど、同じ宿に泊まったというだけで、すでに 特別 な関係だった。
アンジェラと別れて私は意気揚々と歩みを進める。ここではひとりぼっちではない。 そんなアンジェラとの会話だけで、また元気をもらう。
しばらく歩き、その景色の良い場所で、お昼ごはんを食べようと思っていると、そこへアンジェラが、道をはずれて下の方へ下って行く姿が見えた。
私は生ハム、チーズが溶け込んだハーブ入りオムレツが入ったサンドウィッチを ほおばると、下の方の、石の天然の大きなテーブルいっぱいにご馳走を広げた アンジェラの大昼食会が始まった。
なんて幸せそうな人なんだろう。
一人でいても、とても楽しげなのだ。 それを見て、私も幸せな気持ちになり、将来あんな女性になりたいと思った。
そこで大きな景色をゆっくり楽しみ、疲れを癒し、ゆったりと休む。 そこへ先のベルギー人のおじさんが通 りがかる。
おじさんは、ここは有名な ビュースポットなんだと教えてくれた。おじさんは数年前にも一度歩いたことがあるのだ。
 
 まだ昼食会を楽しんでいるアンジェラをそっと残して、再び歩き出す。
やはり足の痛みが消えたわけではない。
ただ、気持ちはどんどん軽くなり、太陽が光り出すと、草も木も花も一気に 輝き、道にあるすべてのものが、私を励ましてくれるような気がした。
視界が開けたせいかますます景色は美しくなり、私は一人呟く。
『もう、きれいすぎて、たいへんだ!』 ぶつぶつ言いながら歩く。足の痛みを忘れるほど気分がいいのだ。

水飲み場は常に必要な場所にある。ぺっとボトルに水を注ぎ足して歩く。
歩いて行くと、道は二つに別れていた。 さて、どちらに行こうか。ふと右の方向を見ると、羊の群れが木の下で休んで いた。
そうだ!こっちに行こう。
細い道を歩いて行くと、やや広い道が見えてきた。
さて、今度はどちらに行くべきか。
まわりには誰もいない。やや広い道に出ると、どこからやってきたのか、大学生くらいの女の子に出会い 道を聞く。
彼女は私が行くべき方向を、自信を持って、教えてくれた。
彼女は私が今来た道を歩いていった。
後ろ姿を見送りながら、 タイミング良く出現した女神のような人だなと思う。
こんな風に、いつも道を決める時、必ずどこからか誰かがやってきて道を 教えてくれる。
間違った道を行くと、遠い所から見ていた人が、そこは違うよと 言ってくれる。
おかげで道に迷うことがなかったのも、この道の不思議である。

 道は緩やかな下りとなり、緑の森、小川、夢のような景色の連続であった。 こんなのんびり旅をしていた私が、とうとう今日の目的地の、RONCESVALLESに 着いたのは4時20分だった。
オフィスで宿泊の手続きをし、ベッドを確保し、グリちゃんを探しながら中庭にいると、 そこへニコニコしながらゴールしたのは、アンジェラだった。
私たちは抱き合い到着を祝った。
スペイン4人組や、ベルギーのおじさんとも再会し、握手をした。
そのうち、グリちゃんも登場し、明日の出発の時間を打ち合わせして、私はミサに出るのを あきらめ、汗を流し、洗濯をし、とにかく上質な眠りを得ることに集中することにした。

  シャワーを浴び、芝生の上で日記を書く。
目の前には巡礼者の洗濯物がはためいている。
私はこの旅で、何を得られるのであろうか。
いや、何かを得るために旅に出たとは思いたくなかった。
それよりも、何の先入観のない真っ白な心を持ちたい。
すべての事に感動できる心を持ちたい。
だから、事前に調べた情報を確かめるのではなく、自分なりの、オリジナルなもの の感じ方をしたいと願い、日記にそう記した。

  アルゲルベは、古い教会(?)で、一階に大量のニ段ベッドが並んでいる。
地下がトイレ、シャワー、洗濯機や大テーブル、電話もある。 機能的な部分は、近代的で使いやすかった。
私にあてがわれたベッドのすぐそばに、アンジェラのベッドもあり、 二人で今日あったこと、食べたものの事など報告しあった。
アンジェラは、私がスペイン語が出来ると勘違いして、ぺらぺら話し続ける。 私はカタコトしか喋れないっていうのに。
それでも、そうやって古い友人のように、話をしてくれるアンジェラの期待に 応えて、会話をした。
大部屋は、思ったよりずっと静かで、私は5時間眠ることができた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

7月21日  LARRASOANAまで (27,4km)

 

 7時半にグリちゃんと待ち合わせをして出発。
まとまった時間寝たおかげで、足もとはしっかりし、気分も最高! 途中バルに2度寄り、ララソアーニャのアルベルゲに辿り着くまでの 最後の数キロは、思っていたより距離が長かったことと、暑さで、 ぐったりしていた。
しかし、着いてすぐに浴びたシャワーは、最高の ご馳走で、わざと水をひねり体全身で、幸せ感を味わった。
外のベンチで足のマッサージをしていると、ブラジル人のおじさん 来て、筋肉痛のためのスプレーをかけてくれる。
次にベネゼエラの ホセが来て話をする。ホセのご両親はスペイン人で、今は引退して、 サンティアゴの近くに住んでいることなど教えてくれた。
そんな時、向こうから、アンジェラがうれしそうに到着した!
私たちは抱き合って、今日の歩きを讃えあった。

 その夜はバルに行き、ビールを飲み、簡単な食事をしたが、ここにもみんなの姿があった。
チロル地方から来たオーストリア勢は、あちこちでヨーデルを披露してくれたし、 おしゃべりのイタリア人のアルベルトも話しかけてきた。
スペイン、マラガ出身の4人組(サンジャンのアルベルゲから一緒)もここに 泊まっている。 その一人アドリアーノは、来年は日本を一周したいからと言い、ペドロは、『禅』に興 味があると言って、分厚い本を見せてくれた。 まだ歩き出して丸二日。なのにもうすっかり仲間意識が芽生えはじめていた。
今、自分の日記を見て、こんな早くから私たちはしっかりとした絆で結ばれて いたことにあらためて驚く。

 ララソアーニャのアルベルゲの、ホスピタレーロのサンティアゴさんは、日本人 びいきで、私たちに二人部屋を当てがってくれ、過去の日本人の宿泊客から送られた 手紙をごっそり持ってきて、読ませてくれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

the 1st stage 
 7月18日から 7月23日まで

7月22日  CIZUR MENORまで(パンプロ−ナ経由)

 

 (19,8km) 翌日はサンティアゴさんに見送られて出発。
今日は朝食を10km先の村までオアズケして、歩いていく。 途中、スニッカ−ズタイムを取るグリちゃん(グリちゃんは燃料が切れると歩けない) より一足先に歩き出す。
その道はギリシャの島で歩いたような、輝くような緑の多 い素敵な道だった。
歩いていくと、水飲み場にペドロが一人でリンゴをかじりながら休憩をしていた。 私も水をボトルに満たしていると、リンゴを差し出してくれた。 遠慮なくいただき、私もほおばった。朝ご飯抜きだったからありがたい!
そこからはペドロと話しながら歩いた。 彼の話では、もともと4人組だったのではなく、ペドロは他の3人と、パンプロ−ナ で会い、気が合って一緒に歩くことにしたのだと言う。 したがって、他の3人は学生だが、ペドロはエンジニアであり、来年は会社から 出資してもらい、大学に戻りmasterを取りたいということだった。
ペドロは次の週の金曜にはブルゴスに着き、そこから帰らねばならないと言う。
昨日から膝が痛いと言っている。それは数年前のピザの宅配のバイトを している時のバイクの事故の後遺症だそうだ。
ピザの配達は時間との戦いである。時間が遅れたら、バイト代が安くなる。 そんな時、車と接触したそうで、その時バイクごと倒れたが、心配だったのは 自分の体ではなく、ピザだったそうだ。ピザの無事を確認して、そのまま 配達して、後で病院に行ったそうだ。
ペドロと歩いていると、ゆっくりなのは怪我の後遺症のためばかりではない。
すれ違う人と、必ず立ち話が始まるのだ。
ランニング姿で走る地元のおじさんたちには後ろから『リュックを持って走って!』 と、声をかけ、犬の散歩をしている人と立ち止まってゆっくり話す。
ペドロはロンダ出身で、NYに住んでいる兄を訪ねて5月に遊びに行ったが、アメリ カ人の考え方は好きではないという。ヨガや禅に興味のある青年なのだ。

  そのうち、カナリア諸島から来た二人組と合流し、朝食を食べる予定の町に入ると グリちゃんが待っていてくれた。
全員でバルに入り、軽い食事を取る。
ここからパンプロ−ナに入って行くのだが、 私もグリちゃんも、もったいない事だが、観光する気をなくしていた。
ここは、サン・フェルミンという牛追い祭りが有名な場所だ。
しかし、今日の目的地、パンプロ−ナの一つ先の村に早く行きたかった。 街の中にはたくさんの人の顔写 真が並べられたポスターが貼られている。 エタのテロ(バスク独立)で亡くなった人たちだ。
巡礼では、広範囲な地域を通る。そこには問題を抱えた地域も多い。 そんな側面をまのあたりにしながらも、足は進んで行く。
別の仲間も加わって、話をしながら歩いていると、ペドロはその時を境に 消えてしまった。たぶん私たちより先の村へ急いだのであろう。
今日の宿はシズル・メノル。小さな村のアルベルゲだ。
ここは、カルロマグノとモーロ人の戦いの地であった。
入り口の向かい側には小さな教会があり(ロマネスクの遺構)、そこに高校生たちが寝とまり するらしく、アルベルゲのキッチンではその子達のための食事が作られていた。
この日もこの村に着く前の4〜5kmがとても暑く、シャワーが気持ちの 良いものだった。 外でマッサージをしていると、オーストリア人のアレックスが話しかけて きた。初めて会ったのかと思ったら、私たちと同じ列車でサンジャンまで来たと言う。
向こうは私たちのことを覚えていてくれたらしい。 結局彼とは最後のサンティアゴまで、いつも一緒だった。

  アドレア−ノは英語が得意で、日本語の勉強もしたことがある。 日本に興味があり、ジャーナリズムを専攻し、美術に興味を持っている。 いや、それだけでなく彼はすべてにおいて好奇心が強く、いつも目が輝いているような、 生命力に溢れた青年だった。 彼はいつも私たちに町やイベントのインフォメーションを伝えてくれる。お陰で情報が 入り助かった。

アドレア−ノがベッドに一人座って、何か縫い物をしている。
「何をしているの?」 と尋ねると、鈴を付けていると言う。
すでに4つ目の鈴をつけていた。それは日本の鈴によく似たものだった。
これを、その町に着く度に買って付け足していくのだという。 一緒に歩く仲間から、音がうるさいって苦情がでなければいいんだけど・・・ と、言いながら。
そして、その鈴の一つを記念にと言ってプレゼントしてくれた。
私はその小さな鈴を握りしめながら、アドレア−ノの何に対してもひたむきで 積極的な生き方を、心から応援したいと思った。
  そこへ、さっき紹介されたセビリアから来た、パキとその弟アンヘルが アドリア−ノと話をするために、控えめに私に気づかいながら、となりにいるのを 見つけ、私は遠慮しようとすると、6時にミサがあると教えてくれた。

 ミサの前に、グリちゃんを誘ってビールを飲みに外へ出た。
グリちゃんと乾杯し、村のおじいちゃんばかりが集まるようなバルで一時を過ごす。 本当は食事がしたかったのだが、たいていのところは7時、もしくは8時からと言 われ、ポテトチップくらいしかつまみはなかった。
6時に教会へ戻ると、そこには地元の女性らしき人と、アドレア−ノが話をしていた。 私たちはしばらくそこに座ってミサが始まるのを待ったが、結局その日は何も始まらなかった。
また、眠れぬ夜を過ごしていた私は、カタコトのスペイン語を駆使して買った 睡眠薬の使用方法をアドレア−ノに読んでもらうことにした。
説明書を読んでもらい、 1日1〜2錠飲む ことを教えてくれ、
「もしかしたら、僕達の立てる物音のせいで眠れないの?」 と聞くので、とんでもない。彼等は最初から、いつも他人に気をつかってくれて いたのだ。誰のせいでもないのだ。たぶん体は疲れていても、気が昂って眠れない だけなのだ。
ふたたびグリ ちゃんと、レストランに行く。勘で注文した料理は、どれもおいしくて 大満足。考えてみれば、この日まで食事らしい食事をしていなかったのだ。

7月23日  PUENTE LA REINAまで (18,9km)

 

今日は早く出る。木がないような道を延々と歩く予定なので、早めに出発した方が いいということだった。
村を出るまでは、明かりが少しあり、歩いていくと、マラガ3人組(元4人組) の二人キケとアビルに追い付いた。
キケの足の具合が悪いらしい。 かなりゆっくりであった。
私も前日に大きな石に左足の親指を思いきり ぶつけたせいか、少々痛む。
この日はペルドンの丘まで一気に登る。丘の上にはモニュメントがあり、 ちょうど日本人撮影隊が、5分間番組を撮影していた。
寒いのだが、登ってきて喉が渇いていたので、オレンジジュースを飲む。 キケ以外の仲間もそこにいて、かなり遅れてキケが着いた時には、休憩も 終わり、一気に下りになった。
私は足の悪いキケと一緒に話をしながら歩いた。 下りは親指が靴に当たり、かなり痛みを伴った。キケと同じスピードを 合わせているので、よけいに辛い。
  キケは一見どこにでもいる学生のように見えるが、かなり身なりも中身も オールド・ファッションの、骨のある男だった。 肩から昔風の羊の皮で出来た(胃袋をかたどった)水筒をぶら下げ、ちょっぴり要領の悪い、素朴な青年なのだ。 やっと丘を下り、グリちゃんも一緒に歩き出す。
今日の目的地、プエンテ・ ラ・レイナまでは、あと一つ村を越せばいい。その時、私たちは飲み物を 買いに小さな店に立ち寄った。
キケの足取りは、増々重く、見るからに不憫だった。
なのに!
キケはその店で、重いバナナを4本、大きなチョコレートを一枚買った。 その食料を指し、これが僕の命を救うと言いながら、先にレジを済ませたキケが、 外で大きな物音を立てている。
どうやらバランスを崩して転けたらしい。
バナナとチョコをぶら下げたキケの後ろ姿は、もう不憫さを通り越して、 滑稽でしかなく、私はその姿を見て、涙が出る程笑ってしまい、歩行困難 に陥って困ったものだった。

  プエンテ・ラ・レイナは、この街で別々のルートが一つになる地点だ。 名前の通 りアルガ川にかかる王妃の橋は、ナバーラ王妃(ドニヤ エステファニア)が巡礼者のために造った美しい橋のある町なのだ。
町の入り口にあったアルベルゲにチェック・インする。仲間のほとんどが ここにいる。
私は足の親指が気になってしかたない。爪と指の間が腫れているの。 黴菌でも入って膿んでいるのではないだろうか。心配な気持ちは、どんどん膨れあがるばかり。まだこれから距離があるので、早いうちに医者にみてもらうことに決めた。
ホスピタレーロに病院への行き方を、教えてもらい行ってみた。
橋のたもとにある公営病院の受け付けで言われたことは、専門の医師は 今いないと言って、紙切れを渡され、そこには『112』という電話番号。 三時にそこに電話しろと言う。
112って救急番号? この人もスペイン語しか話さないし、112に電話しても顔が見えなくては 意思疎通は絶望的である。

もう無理かな・・・と思って一応承諾して 病院を出ると、そこへパキ、アンへル、後ろの方からアドレア−ノが来るのが 見える。アドレア−ノは頼れる存在だが、一番手前に現れたパキに、わらをも すがる思いで、このことを告げると、彼女が3時に電話をしてくれ、一緒に病院にも つきあって通訳してくれると言う。
パキも英語が少し喋れるのだ。 私はパキのこの迷わず応えた即答の親切な内容に信じられない気さえした。
なんて天使のような人なんだろう。
3時にアルベルゲで会う約束をしたので、パキのいる部屋へ行ってみると、 すぐに電話をかけてくれ、先程の病院に行くことになった。 キケも一緒に行くと言う。キケの英語はカタコトだが、キケが行くなら パキはついて来なくてもいいのかと思ったが、キケもすっかり弱っていて頼りない。
キケは、病院までの道のり、缶ビールを飲みながら、ゆっくり足をひきずりながら やって来た。 パキは、きっと痛くてお酒で気を紛らわしているのよと笑っている。
パキの弟アンヘルは公園へ行き、私たち3人は病院の待ち合い室に入った。
パキは、まじめで大人しい印象だった。まだ知り合って間もないし、アドレア−ノから 紹介されたばかりで、話もしたことがなかったのに、時間を割いて私たちにつきあってくれる。
どうやってお礼をしたら良いのだろうか・・・・。

スペインの病院のこと、診察が始まったのは5時だった。 親指の爪と指の間に出来ている肉刺は、指の上側にあった別 の肉刺と繋がって いるということで、上側の肉刺だけ水を抜いて消毒してくれた。 あとはこのままにした方がいいと言われた。
私は何か毒でも入ったのではないかと怖れていたので、ここに来て、診察しても らっただけで、ものすごい安堵感があった。
私は心からパキに感謝をした。
私の後で診察をしたキケは、さらにひどい状態に なって、診察室から出てきた。 公営病院では医療費は無料ということだった。 この日肉刺をスペイン語で、『アンポイヤ』ということを知った。

グリちゃんが約束の時間に病院に現れ、二人でインターネットカフェに行く。 なかなかネットは繋がらなかったが、おかげでグルジャンという、見かけは 日本人そっくりの、カザフスタンの女性と話をした。
この旅で、一番英語が通じる相手を得て話がはずんだ。 彼女の故郷の話、現在の仕事の話…彼女は国の奨学金を得て、マヨルカ島 に留学、卒業後マヨルカ島の空港に勤務しているということだった。 今回は3日ほど歩いてまた9月の休みに続きを歩くそうだ。 お互いを写真撮影しメールアドレスの交換をして別れる。

巡礼のシンボル、帆立貝とひょうたん
道しるべ(フランス側)
バイヨンヌから乗り換えた小さな列車
列車はなかなか出発しない。外は雨・・・
サン・ジャン・ピエド・ポーで初めて泊まったアルベルゲの室内
サン・ジャン・ピエド・ポーのアルベルゲの入り口
アルベルゲの前で準備するイタリア女性(アンジェラ)
出発してすぐに霧で、前後10メートル程度の視界だった
露が付いて美しい蜘蛛の巣
アンジェラと話ながら歩く
祈りを込めて積み上げられた石
私の昼食
広大な景色のなかで、アンジェラの大昼食会が始まった
イタリアから持ってきた食材か・・・
古い道しるべ
水色の服を来ている人が、ベルギー人のおじさん
道を教えてくれた女神の後ろ姿
RONCESVALLESのアルベルゲ入り口と室内
はためく洗濯物
LARRASOANAのアルベルゲの部屋の窓から
LARRASOANAのアルベルゲの入り口
水飲み場とペドロ
お散歩中の犬
パンプローナの市役所
上/ペルドンの丘の上のモニュメント   下/丘から見た風景
キケの後ろ姿
キケの巡礼ファッション
公営の病院
カザフスタン出身のグルジャン
街の名になった橋、プエンテ・ラ・レイナ
クレデンシャル(巡礼許可証)に記念すべき一つめのスタンプを押してもらう